男とおんな
「ねぇ、あれサンジくんじゃない?」
ナミがふと立ち止まり、店と店の隙間の狭い空間に目をやる。
ログを辿り到着したこの島は、治安の良さと悪さが同居していた。
表通りは食材や雑貨や服飾店で賑わっているが、一歩裏道に入ると暗く薄汚れた空間に変わる。
一般人は裏道に足を踏み入れない。
逆に裏社会を生きているものは、そこで生計を立てている。
旅人などが誤って足を踏み入れてしまうと、あっという間に餌食になってしまう。
良くない噂を、ナミは仕入れたところだった。
この街を歩く時は気をつけなさい、と。親切な服屋の女主人が忠告してくれた。
「見えた?ゾロ」
ナミは目がいい。一瞬路地の向こうに見えた金髪がサンジに思えた。
荷物持ちとして買い物に付き合わせているゾロの腹巻をひっぱり、あそこ、と指す。
すでに誰もいなくなったそこを、訝しげに見つめる。
「あぁ?んなの見てねぇよ。気のせいじゃねぇのか?」
「だといいんだけど……」
普段のナミなら、誰がどこで何をしようが、海軍に追われる羽目にならなければそれでいいと考えている。
サンジに対してはなおさら、他のメンバーよりもその点に関しては信用しているので、干渉することはない。
だが。
「ねぇ、追いかけてみてよ」
「はぁ?放っとけよあんな奴」
「だって……」
あの噂を聞いたところなのだ。
「誰かに、連れられてたように見えたのよ」
「……あいつがか?」
「ただの見間違いならいいんだけど……サンジくん、意識がないみたいだった」
「………………」
「気のせいならいいの。でも見つけちゃったもの。たとえサンジくんじゃなくても、無視したら後味が悪いわ」
ナミは声を潜め、ゾロに耳打ちする。
「さっき聞いた噂。……旅人なんかが間違って裏道に入ると、餌食になるんですって」
「……何の」
「人身売買」
その単語に、ゾロは眉を顰める。
「……胸糞悪ィ話だな」
「だから見てきてよ。サンジくんが売られるなんておもしろくないわ。ルフィが知ったらおおごとになりそうだし…」
「ったく……」
世話の焼ける、とばかりに溜息をつき、持っていた荷物をすべてナミに押しやる。
「先に帰ってろ」
「ちょっと、重いわよ」
「お前が買ったもんだろうが。たまには自分で持て」
「ちぇっ」
「……で、ここのログはどれくらいで溜まる?」
「およそ38時間」
「あと何時間だ」
「33時間。でもログが溜まるのは真夜中だから、出航は難しいわね。できれば夜が明けてから出航したいわ」
「……出航できるのは今から何時間後だ」
「およそ37時間後。だから、それまで海軍に追われることは避けたいわね」
「……ま、なんとかなるだろ。人身売買をしてるような連中なんだろ?奴らが海軍を呼ぶこともねぇだろう」
「もし海軍が出てくるようなら、そいつらを追わせるように仕向けてしまえばいいわ」
「簡単に言ってくれるぜ」
「……もうすぐ日が暮れる。あんたも気をつけなさいよ」
「問題ねぇだろ。あの阿呆も自力でなんとかできんだろ」
「そうね。余計な心配だったと思わせて頂戴」
お互いにニヤリと人の悪い笑みを浮かべ、ゾロは路地へ駆け出し、ナミは何食わぬ顔で表通りに足を向けた。
「よぉ、こりゃあ上玉じゃねぇか」
「さっすが姐さん、いいヤツ引っかけましたねぇ」
「ふん、男ってのは皆バカだからねぇ」
「そりゃあねぇよ」
ガハハハ……という下卑た笑い声で、サンジは目を覚ました。
頭がガンガンする。
頭に手をやろうとし、体の自由が利かないことに気付いた。
(なんだ……これ……?)
確か島に着いて、食材の買い出しに出かけて、路地裏で麗しのお姉さんに声をかけられて……と考えたところで覚醒する。
サンジは路地裏に入り込んでしまっていたのだ。
そこで妖艶な美女に声をかけられ、口説こうとした瞬間催涙スプレーを吹きかけられた。
避ける間もなく鉄の棒が後頭部を直撃し、そのまま意識を失った。
(クソっ…しくじった……)
サンジは両手両足を縄できつく縛られ、床に転がされていた。
コンクリートが剥き出しの壁、薄暗い室内、ひび割れた窓。
広さはそれなりにあるものの、廃屋のような場所に連れてこられたようだ。
サンジは知る由もないが、この島の裏社会に生きる者たちの住処はどこもこんな場所だった。
それぞれがそれぞれの縄張りを持ち、牽制し合い、時には持ちつ持たれつの関係となり、彼らなりの生活をしていた。
ひとつの大きな社会となっているため、海軍もすべてを取り締まることができず、見て見ぬふりが現状だった。
実際にこの島の表の住人を巻き沿いにすることはほぼなく、しっかりと境界線ができている。
暗黙の了解で、きちんと棲み分けをしているのだ。
だから海軍も、よほどのことがない限りは干渉してこない。
島の中でのこのような仕組みが成り立っているからこそ、旅人達が狙われているのだった。
余所者を捕らえ、余所に売り捌くのだから問題ないだろう、と。
「あら、起きたの?坊や」
サンジを捕らえた妖艶な美女が、床に転がされているサンジへと近付く。
「できればこの縄を解いてほしいんですがね、レディ。残念ながら縛られる趣味はないんですよ」
「あなたにはなくても、私にはあるのよ。……今夜は帰さないから」
「でも日暮れまでには帰るように仲間に言われていますから……」
暗に日暮れまでに解放しなければ、仲間が来るぞと脅してみる。
しかし女は気に留めず、くすくすと笑う。
「あらそう?ここにいれば素敵なコトが出来るわよ?」
「素敵なコト、ですか」
「ええ」
女の眼が光る。まるで、獲物を捉えた雌豹のように。
あれを、と手を出すと、すぐに小さな物体が手のひらに乗せられる。
それを優雅にサンジの目の前に差し出してみせた。
薬のように見えた。
「………それは?」
サンジの背筋を、冷たい汗が流れる。
その薬のようなものが何かはわからないが、己に不利益なものであることは確実だろう。
「何だと思う?これが、私たちの生活に必要なモノ」
金の髪を掴み上げ、顔を近付けて笑う。
「これをあなたに飲ませて、売り捌くのよ」
「……俺みたいなの売れませんよ」
「そんなことないわ。あなた綺麗だもの。きっと美人になる」
その言葉に、サンジは違和感を感じた。
「……美人に、なる?」
「ええ」
耳元で、歌うように囁く。
「これはね、女になれるクスリよ」
サンジの口に薬が放り込まれようとした瞬間、ひときわ大きな音が鳴り響いた。
「何やってんだ、てめェ」
コンクリートの壁をぶち抜き現れたのは、緑の髪に金の三連ピアス、緑の腹巻に三本の刀を挿した男だった。
「……ゾロ」
「面倒くせぇ所で捕まりやがって。探す方の身にもなってみろ」
「……探したのか?俺を」
「だから今ココにいんだろ」
「……いつも俺がお前を探す苦労がわかったろ」
「うるせぇな、さっさと帰るぞ」
「……お前、よくここに辿り着いたな」
「あぁ?勘だ勘」
サンジはひたすら驚いていた。軽口を叩いているが、予想外の展開に目を丸くしたままだ。
いつも迷子のゾロが、俺を探しに来た。そして辿り着いた。いつもは森の中に迷い込むのが定番なのに、と。
「……愛の奇跡?」
「はぁ?ついにイっちまったか?どうでもいいからさっさとしろ」
「俺、動けない」
「……ったく、面倒くせぇな」
ゾロが一歩を踏み出すと、それまで驚きで呆けていた誘拐犯一同がはっと我に帰る。
「てめぇ、何モンだ!」
「聞かれて答える馬鹿はいない」
「っ、ふざけんなあ!」
「あ?やんのか?やるなら容赦しねぇぜ?」
暴れまわってやる、とばかりにニヤリと笑い、舌嘗めずりする様はまるで獣である。
「待て!この男がどうなってもいいのか!?」
サンジの傍にいたひとりの男が小型のナイフを取り出し、サンジの首に突き付ける。
だが。
「おい。そんな奴くらいどうにかしろ」
「うわ、手足を縛られてる俺にひどくねぇ?」
「知るか」
そんなやりとりの後、本当に知るかとばかりにゾロは敵に突進していった。
敵は約15人。サンジがナイフを持つひとりをどうにかする間に事は済むだろうと、刀を抜いた。
しかし次の瞬間。
「動かないで!」
女の声が響いた。
サンジのすぐ傍にいる女が、サンジの頭に向けて銃を構えていた。
ゾロは一瞬迷った。
このまま攻撃するか、否か。
だがその迷いが明暗を分けた。
ひとりの男の銃弾が、ゾロの抜いた和道一文字を弾いていた。
「……ちっ」
迷いを悔いた。しかし、ゾロには攻撃することは出来なかった。
サンジは女に弱い。普段の生活を見ていればわかることだ。
己の場合は、戦闘になれば容赦しない。
いや、多少の情けはかけてしまうが、戦い自体を拒むことはしない。
サンジは女と戦うことすらできないのではないかという懸念が、ゾロにはあった。
だから、あのまま己が攻撃を仕掛けていたら、女の銃弾はサンジの頭を撃ち抜いていただろう。
サンジは手も足も出せずに。
だから、攻撃しなかったことは悔いていなかった。
迷い、己の手から剣を奪われる事態になったことを悔いた。
「そう、いい子ね。そのまま2本の剣も捨てなさい。私は金髪くんを殺したいわけではないのよ」
照準は外さないままに、女はゾロに命じる。
ゾロはぴくんと片眉をあげて抗議するが、抵抗の無駄を悟っている。
女がサンジを捕らえている限り、自分には手出し出来ない、と。
しぶしぶながらもゆっくりと構えを解き、1本ずつ刀を地面に放る。
男達がおずおずと近付き、刀をゾロから遠ざける。
女は熱心にゾロを見つめる。まるで値踏みをするように。
「……あなたでもいいわね」
ひとりごとを呟いたかと思うと、ゾロに交渉を持ちかける。
「彼を離してもいいわ。彼のかわりに、あなたがここに留まるというのならね」
「姐さん!」
「黙ってなさい。金髪くんを殺そうものなら、今度は私たちが彼に殺されるわ。だから全員が命を繋ぐ方法を提案しているの」
「……信用できるかっ」
「あら、私たちの商売は信用が売りなのよ?」
「人身売買だろ?聞いて呆れる」
「だからこそよ。信用を失えば誰も買ってくれないもの」
女が、仲間の中でも屈強な男に目線で合図を送る。
男はそれを受け、女が持っている薬を受け取りゾロに近付く。
「悪いけど、それを飲んでしばらく大人しくしててくれないかしら。あなたのような人が起きたままなんて、怖くて仕方がないわ」
ゾロは更に眉を顰める。当然だろう。どんな効果が出るのかは知らないが、敵に薬を飲めと言われて素直に飲めるわけがない。
いや、飲むのは構わない。自分ひとりなら、どんな方法を持ってしても切り抜けてやると固く決めている。
目の前に立った薬を持つ男を睨みつける。
「それなら先に、そこの金髪野郎を解放しろ。そしたらいくらでも飲んでやるよ」
そう、サンジを解放させる方が先だった。己が薬を飲み、サンジが捕まったままではなんの意味もなさないからだ。
「いいでしょう。当然の要求よね」
女は銃口を向けたまま、サンジに近寄った。
「人身、売買……?」
サンジの口から呟きが漏れる。
なるほど、これは人身売買の組織だったのか。だから先程、己を売るとかいう話になっていたのかと妙に納得した。
だから薬を…。
(……薬?)
あの薬は、一体何だと言っていただろう。
妖艶な美女は、あれを何の薬だと……。
「ゾロっ、逃げろっ!!」
まずい、まずいまずいまずい!
あれはただの睡眠薬や毒薬といったものではなく……!
サンジの叫びはゾロの体を反射的に動かした。
しかし一瞬、間に合わなかった。
屈強な男がゾロの体を引き倒し、無理矢理その口に、薬を捻じ込んだ。
「ゾロォっっ!!」
逃がすまいと、暴れるサンジの上に男が圧し掛かる。
それを振り落した直後、ゾロの絶叫が響き渡った。
サンジの声でその場から飛び退こうとしたが、一瞬早く目の前の男に引き倒された。
床に叩きつけられた衝撃で息が詰まる。
大男の全体重が、勢いよく圧し掛かってきたのだ。さすがのゾロも痛みを堪えた。
その隙に男が無理矢理ゾロの口を開けさせ、薬を捻じ込んできた。
抵抗するものの、指を喉の奥にまで差し込まれ、吐き出すことが出来なかった。
激しく噎せていると、急に体が熱くなってきた。
どんどんと体の熱が上昇し、激しい痛みが全身を襲う。
体の内側から焼かれ、溶かされ、切り裂かれるような痛みに、口から迸る叫び声を抑えられなかった。
痛みが襲ってきていた時間が長かったのか短かったのか、ゾロにはわからなかった。
その長く短い時間が終わった時、ゾロは意識を保てず、手放した。
怒りに我を忘れるとはこのことを言うのだろうか。
どこか冷静に、しかしサンジは怒っていた。
己のせいで起きたこの事態を。
その辺りに転がっていたガラス片で、己の命とも言える手を傷つけることも厭わず、無理矢理手首の縄を引きちぎる。
ガラス片を解放した手に握りしめ、足の縄も引きちぎる。
ナイフや銃を持って襲いかかる男どもを、怪我をするのも厭わず薙ぎ倒す。
ひとりで約15人の相手を無力化し、最後に女の持つ銃を蹴り飛ばす。
「ひっ……!」
怒りに燃えた目が、女を貫いた。
女は耐えられず、その場にへなへなとしゃがみ込んだ。
「………ゾロっ!」
床に蹲り倒れているゾロの傍に寄る。
ゾロは、その姿を変えていた。
体は一回り小さくなり、がっちりとした肩幅はなだらかなラインを描く。
柔軟な筋肉に覆われていた体躯はほっそりとし、顔も幾分柔らかく優しくなっている。
何よりも明らかなのは、豊満な胸。
そこにいたのは、一目でそうとわかる、ゾロの面影を残した明らかなる女性だった。
next(2へ)